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大阪の石井行政書士事務所は、行政許可、相続遺言、入管業務、代筆代書を専門とする法務事務所です。

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創造の空間で遊泳してみませんか? 文学への誘い

おふくろの味

(某全国系文芸商業誌に掲載された作品です)

宅急便です、という声に祐一が出て行くと蜜柑箱を持った配達員が立っていた。

確かめるまでもなかった。送り主は母のハルで、箱の中には手塩にかけて育てた野菜が詰まっているのだった。

ハルは大阪の実家でひとり暮らしを続けている。今年八十になるが気丈夫で、これまで床に伏したこともない。

父が急死したのは祐一が九歳のときだった。過労による急性心不全だった。以来、高校を卒業するまで母子ふたりだけの生活が続いた。父が田畑や借家を残してくれたおかげて生活に困るようなことはなかった。

東京の大学にあこがれを抱いていたが、ハルのことが気がかりで地元の大学に進むつもりでいた祐一に東京での学生生活を薦めたのはなんとハルだった。

K大を卒業した祐一は丸の内に本社がある建設会社に就職した。面接で大阪勤務を強く望んだが、聞き入れてはもらえなかった。やがて由香と出会い、祝福されて結婚した。子どもができ、責任あるポストを任され、大阪には帰れそうにないことを悟った祐一は郊外に庭付きの家を買った。以来祐一は何度もハルを呼び寄せようと腐心したが、ハルは祐一の誘いを頑ななまでに断りつづけた。

玄関で蜜柑箱を開封した。枝付きの枝豆がびっしり押し込んであった。青臭い、独特の草いきれが鼻を刺激する。根の部分には一様に畑の黒砂がこびりついている。指先で触れるとぱらぱらとこぼれ落ちた。まぎれもない郷里の畑の土だった。

葉と枝の間から白い紙がのぞいている。ハルからの便りだ。きちんと四つ折りになっている。祐一は抜き取るとその場で広げた。  大好物の枝豆を送ります。一度にあまり食べ過ぎないように。例年より粒が小さいのは曇りが多かったせいです。来月は西瓜が送れるはずです。今年は黄西瓜を半分ほど植えました。楽しみにしていて下さい。

子どもたちは元気にしてますか? 東京では変な事件が続いているので心配です。由香さんにもよろしく。ハル

夏日をいっぱいに浴び、気まぐれな風を受けて揺れる稲穂に用水路から水を汲むハルの姿が重なり、祐一は胸が痛んだ。

「大阪のおばあさんから?」

いつのまにか知夏が後ろに立っていた。T美大に通っている。由香に似て気が強い。

「ああ、そうだ」

祐一の声が沈んだ。

ふたりのやりとりに気づいた由香が二階から降りてきた。

採れたてを梱包したのか、葉は萎れてはいない。祐一は枝から莢をむしり取った。青汁が指先に付着し、指紋を頼りに広がった。

「おやっ?」

目の錯覚だろうか。黒い虫が一匹、こそこそ葉の裏へと逃げ隠れたようにみえた。

「どうしたのよ?」

知夏が聞き返す。

「蟻みたいな、黒いものが動いたんだよ」

「そんなの、いるわけないじゃないのよ」

小馬鹿にしたような知夏の言い方にさすがの祐一もむかっときた。

「たしかに動いたんだよ、今」

二人の会話に由香が割って入ってきた。

「あなた、おかあさんに言ったはずじゃなかったの? うちは無農薬しか食べないって」

「・・・・・」

由香は無農薬野菜を共同購入する市民グループの中心的なメンバーだった。

「お母さんを傷つけまいという気持ちはわかるわよ。でもそれって罪なことじゃない?」

「そうよ。おとうさんが優柔不断だからいけないのよ。送ってもらっても捨てるだけだから、送らないでくれって、はっきりと言えばすむことなのに・・・・・」

知夏が由香に加勢して口許を尖らせた。

祐一が子どもだったころ、実家の周囲はのどかな田園地帯だった。それが変貌しはじめたのは三十年代以降。景気の拡大につれ、メッキ工場や化学工場などが建ちはじめ、気がついたときには工場地帯になっていた。

「工場排水で汚染された用水路の水で作った野菜でしょ。いくらおかあさんの真心が篭もっていると言われたって、気味悪くって」

「昔はあの用水路に蛍がたくさんいたんだ。夏は水をせき止め、よく水遊びしたんだ」

「今じゃ、魚も棲めないほど汚れてるわ」

「・・・・・」

「いますぐ電話してよ」

「で、何て言うんだ?」

「さっき言ったことよ。食べないから送らないでくれって」

「あとで言うよ」

「いつもそう言って問題をはぐらかすんだから。何も知らずに作ってくださってる、おかあさんがかわいそうだと思わないの?」

昼すぎ、祐一はゴルフの打ちっ放しに出かけてくると家族に嘘をついて家を出た。T川の土手の広がりに車を止めると、携帯電話を耳にあてがった。

「ぼくや、ぼく。けさ枝豆とどいたわ。いつもおおきにな。東京の枝豆はまずうてまずうて。やっぱりおかあちゃんの枝豆が最高やわ。今晩さっそくゆがいて食べさせてもらうわ」

話しながら祐一は唇を何度も咬んだ。

「そうかそうか。喜んでくれておかあちゃんもうれしいわ。せやけど飲みすぎたらアカンで。あんたは生まれつき人より胃腸が弱いんやから。ほどほどにせんとあかんで」

「わかってる、わかってる」

「由香さん、元気にしたはるか?」

「ああ、元気すぎるくらいや」

「そうか、それやったらええねんけど」

「それはそうとおかあちゃん、黄西瓜、楽しみにしてるさかいな」

「楽しみに待っとき」

それがハルとの最後の会話になった。

枝豆が届いてから三日後、ハルの訃報を聞いた。知らせてくれたのは町会長をしている幼なじみだった。

葬儀は町内の会館で行うことにした。数日分の仕事を部下に割り振りすると、祐一は新幹線に飛び乗った。

祐一が会館に着くと、ひと足先に発った由香たちがハルの納棺をすませ、自らも喪服に身を包み、祭壇の前でひれ伏していた。線香の煙が館内のいたるところでもやっていた。

帳場を仕切っている幼なじみが祐一を見つけて小走りに近づいてきた。

「久しぶりやな」

「迷惑かけるけど、よろしう頼むわ」

「そんな気をつかうなって。お互い様や」

祐一は喪服に着替え、喪主の席に座った。

「和明はまだか?」

祐一と同じK大を出た長男の和明はM電機に勤めている。仙台の支社勤めで、営業車で東北中を駆け回っているのだった。

「さっき連絡があって、こっちに着くのはどうやら深夜になりそうだって」

「そうか。あいつも大変だな」

短いやりとりのあいだに僧侶が着座し、会話は途切れた。通夜経がはじまると同時に、さきほどから外の暗がりで待っていた弔問客の焼香がはじまった。

町内の人にまじって、障害を持つ父兄の会や地域の子供会の代表者、さらには市職員や学校関係者などが長蛇の列をつくっている。

「おかあさんって若いころ、学校の先生か何かだったっけ?」

「いいや。専業主婦だけど」

「じゃあ、どういうことなのよ?」

「ぼくにだってよくわからんのだ」

やがて市の緑地課長と福祉課長の名刺が二枚、差し出されたことでその謎が解けた。

「亡くなられたおかあさんには長年に亘り、田畑を無償で提供していただいておりまして、市といたしましても大変ありがたく、感謝いたしておる次第でございます」

「田畑を、ですか?」

はい、と二人はうなずいた。

「子どもたちが手入れした向日葵がちょうど咲きごろでして、はい、それは壮大な眺めでして、市の夏の風物詩としてですね・・・・、感謝してるんですよ。このようなときに切り出す話じゃないってことぐらい重々わかっているのですが、ぜひ今後とも市のほうに貸していただいてですね・・・・・」

田畑はいくつかあった。おそらくその中でハルの手に負えない田畑を市に貸与していたのだろう。祐一はそう考えた。

読経は小一時間ほどで終わり、いつしか弔問客もまばらになった。

九時をすぎると弔問客はぷっつりと途絶え、親族と葬儀を手伝う人たちだけになった。

幼なじみの指示で、どこからともなく酒類と寿司が運ばれてきた。よく冷えたビールが祐一の喉を何度か通過した。

和らいだ気分が会場に広がりはじめたころ、八百屋の主人だという初老の夫婦が弔問にあらわれた。

主人は恐縮するほど丁重に悔やみを述べたあと、こう続けた。

「生前、おかあさんにはずいぶんとごひいきにしていただいたんですよ」

黙っていろという合図なのか、後ろで奥さんがしきりに主人の袖を引っ張っている。

「はあ、どうも・・・???」

母は畑の野菜を食べていたはずなのに、ごひいきとは変なことを言う人だと祐一は訝った。由香も同様に思ったらしく、首を傾げると祐一の顔をのぞきこんだ。

「おとうさん、言うたらあかんていう約束でしたやないの?」

「わかってるわい。わかってるけど、どうにも我慢できんようになってしもうたんじゃ」

それでもなお奥さんは主人の袖を強く引っ張っている。

「公害漬けされたご時世ですよって、わたしどもも数年前から先進的な農家と契約を交わし、無農薬野菜を販売してるんですわ」

「で、それがなにか?」

「何年前やったか、おかあさんが店に来られ、息子の嫁が無農薬野菜しか食べへんからと言わはって。以来ずっと・・・・・」

「じゃあ、宅急便で送られてくる野菜は?」

「ええ。うちが責任を持って吟味し、発送している野菜ですがな」

「おふくろが作った野菜じゃなかったんですか?」

「思ったとおり、知らはれへんかった。まっ、このトマトを食べてみてくださいや。形は無骨ですけど、酸味があって、青みがかったにがみは昔のままですよって」

主人から手渡されたトマトを祐一は丸かじりした。口の中になつかしい味が広がってゆく。うまい。この味こそ、子どものころ畑でできたトマトの味そのものだった。

「まだありますさかい。さっ、奥さんもお嬢さんも遠慮せんと食べてみてください」

主人はポケットからさらにふたつ取り出した。おそるおそるかじった由香たちも口に入ったとたん、驚きで目を丸くした。

「ああ、私って、なんて大バカだったんだろ」

ここ何年も涙など見せたことがなかった妻の両瞼から涙があふれ出し、頬を一気に伝い落ちはじめた。 了

玉手橋

(平成8年自由都市文学賞入賞作品の序章部分

典子は唇を噛み、孝雄から眼を逸らすと、窓の外に眼をやった。二月初旬で、時折粉雪が舞う今冬一番の寒い日であった。孝雄達は看護婦の指示で、病棟特有の鉄格子のあるこの部屋で、さきほどから担当医を待っていた。

神経科病棟の北側には府立高校があり、孝雄達のいる部屋の窓からそのグラウンドの広がりが一望出来た。

寒風にもめげず白球を追う球児達の張り叫ぶ声、バットで白球を叩きはじく単調だが規則正しいノッカーの乾いたバット音とが先程から一つの旋律となって絡まりながら、校舎と病棟とで反響を繰り返していた。耳障りで忙しげな暖房用のスチームの出す掠れた音が寡黙な孝雄達を遠巻きにしていた。

二人の間に会話はなかった。何か言えば悲観的な言葉しかでないような気がした。孝雄は球児達の動きを追いながら、いつしか遠い夏の日を思い出していた。

「・・・・あれは延長に入ってからやった。なにやしらんねんけど、バッターボックスに入る相手校の選手が急にちいそう見えるようになったんや。投げてて迫力感じんようになってきたんや。肘が折れるぐらい痛うて、練習球投げるのも辛うて、球威もなくなってきてたのに、不思議と打たれる気がせえへんかった。おかしいやろ」

懐かしいベーヤンの声だ。金持ちの息子で話し方までのんびりしている。

「ほんまに勝つんと違うやろかて思うたわ。勝ったら夢の甲子園や。そう思うたら嬉しいなってきた。・・・で、そんなんが二、三回あってその次の回やったかな。延長16回やったと思うわ。キャッチャーのサイン見てたら、急にバッターの顔が間近に見えたんや。顔見てびっくりしてしもうたんや・・・」

「どんな顔やったかて? 」

「・・・泣いとるんや。眼の周りが真っ赤になって涙が浮かんどる。次の選手も、その次の選手も。出てくる選手みんながそうやねん。泣き顔の奴もおるし、ほんまに泣いとる奴までおった。こっちは真剣勝負してるつもりやのに、なんやそれ見てたらおかしな気分になってきてしもうてな」

「どんな気持ちや? 」

「なんや知らんけど可哀想になってきたんや。何回か攻撃の時にベンチで考えてたら、あいつらの涙の意味がようやく分かったんや。・・・よう考えたら、あいつら野球が命より大事な奴ばかりなんや。俺らと違うて、つまり野球でもやろかいうてやったんと違うて、小さい頃から甲子園出るためだけに頑張ってきた奴ばかりなんや。そういう意味では気持ちはプロみたいなもんや。それがあと一歩というところで、俺らみたいな、素人みたいな公立校に手こずってるんやからな。そう考えたらあいつらの情けない、歯がゆい気持ちがようわかったんや。・・・なんで勝たれへんのや。なんでこんな球打たれへんのや。そう思うて自分自身が情けのうなって泣いてるんやとわかったんや。なんやしらんけどあの涙に同情してしもうたんかな。あのサヨナラホームラン打たれた時もそうやった。あの一球は勝たしたらんと可哀想やないかなて思いながら投げたんやから」

「アホやな、お前は・・・」

「きっちり打たれて、それで負けたけど。・・・あのときは打たれた瞬間入ると思うた。・・・弧を描きながらゆっくり外野スタンドに落ちるまで球を見送りながら、悔しいなんてこれっぽっちも思わんかったんや、正直言うて。気がついたらみんなグラウンドに頭こすりつけて泣き崩れとったけど、俺は重い肩の荷が取れたようで、スッとしてたんや。心の底からこれで良かったんやな、としみじみ思うとったんや」

「お前はやっぱりアホやな・・・」

「そうか、やっぱりお前もそう思うか。・・・せやけど、ほんまの話なんや・・・・」

時報を知らせる柱時計で孝雄は現実に引き戻された。典子は依然押し黙ったまま俯いていた。そうした重苦しい雰囲気に耐えきれず、孝雄のほうから典子を励ますつもりで沈黙を破った。

「しばらく入院してゆっくりする事や。ここやったらいろんなこと耳にはいらへんから、余計なこと考えんでもすむから」

「・・・・・」

「心配ない。すぐ帰れる。今は治療に専念する方が最優先や。長田先生もそういう考えや・・・」

「そやけど入ったらもう出れんようになるんとちがうやろか・・・何かそんな気がするんや」

「そんなことない。治療もせんと家でごろごろしているほうが余計悪いんと違うか」

「・・・・・」

「早く治して、また昔みたいに元気な典子に戻らんとあかんがな」

「うん・・・」

ノイローゼは完治するということが難しく、何かの拍子にこうやってぶり返すのだ。今年で十歳になる優が三歳の時になった頃に発病したから、もうすでに七年にもなる。

結局、その日は担当医や孝雄の説得も及ばず、典子は頑として入院を拒んだ為に、自宅療養ということになった。 つづく


織田商事ラグビー部

織田商事ラグビー部 歴史を楽しむ為の小説

私は不況に苦しむ会社から三ヶ月の一時帰休を言い渡され、先々週の月曜から家でぶらぶらする駄目亭主である。

今の会社に見切りをつけ、辞めたとしてもこの不況下のことだ、再就職の当てなどない。学生時代から学業のほうはそっちのけでラグビー一筋だった。現役を引退した後、会社のお情けで総務部に置いてもらっていたような、役に立たない中年男だ。

夕食の残りで昼食をすませると、私は二階の窓辺に据え付けられた長椅子に腰をおろした。ここからだと鉄道に沿って建ち並ぶ色とりどりの屋根が一望におさめることができる。半開きの窓からは秋の穏やかな陽射しは床で寝そべる三毛猫のイチローを柔らかく照らし、心地よい微風が私をどこまでも優しく包みこんでくれるのだ。

私の住まいは都心から電車で一時間ほど離れた郊外、駅から少し離れた小高い丘の上に開発されたニュータウンの中にある。バブルよりかなり前に移り住んだから、斜め向かいの家や右隣の家よりはずいぶんと安く買えた。唯一これが私の自慢できることだ。

私は背もたれを倒し、半身になって時折、料理用の安い赤ワインを口に運びながら、図書館から借りてきた分厚い小説「信長」を読んでいた。時間だけはたっぷりある。

しばらくすると活字が浮きあがって踊りだし、やがては瞼の内側から睡魔が襲ってき、いつの間にか心地よい眠りの暗がりに落ちてしまった。夢でもみたのだろうか、とても穏やかなで安らかな気持ちになっていった。


織田商事

男は天文三年、中小企業を営む父信秀の三男として名古屋の片田舎で生まれた。若い頃より粗野でうつけ者で将来を悲観されたが、成人するにしたがい欲と知恵が出来、権謀術数を使ってまんまと家督を相続した。下剋上の世、一徹に合理性を追求、奇抜な人材抜擢と先見性でめきめきと力をつけ、稀にみる強運と手腕を駆使した男は、今では「泣く子と地頭にも勝つ」という総合商社織田商事の代表取締役社長となった。男の名を織田信長という。

「この尾張の王は、年齢三十七歳なり。細身で長身、髭少し。声は甚だ高く、非常に武道を好み、粗野なり。正義及び慈悲の業を楽しみ、傲慢にして名誉を重んず。決断を秘し、戦術に巧みにして、ほとんど規律に服せず、部下の進言に従うこと希なり。彼は諸人より異常なる畏敬を受け、酒を飲まず、自ら奉ずること極めて薄く、日本の王侯は悉く軽蔑し、下僚に対する如くが肩の上より之を語る。諸人は至上の君に対するが如く之に服従せり。善き理解力と明晰なる判断力を有し、神仏その他偶像を軽視し、異教一切の占いを信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂不滅なることなく、死後何物も存せざることを明らかに説けり」耶蘇会士日本通信

桶狭間の戦い

永禄二年の暮れから、織田商事の株価は異常な値上がりを始めた。五百円から七百円台の間を上下していた株価がゴールデンクロスをした後、一方的に右肩上がりをはじめたのだ。幹事証券会社の調べで、その裏には今川物産の思惑が絡んでいることが判明した。

今川物産は駿河、遠州、三河をエリアとする、守護職の代からの老舗であった。社長義元は永年の念願である京阪神進出に動き出し、その進出の前に立ちはだかる織田商事の乗っ取りを図ったのだ。充分予想されたこととはいえ、株買い占め攻勢に、まだ会社の組織も資金も脆弱な織田商事は最大の危機に立たされた。選択は二つに一つしかなかった。指をくわえて乗っ取りされるのも運命と諦めるか、あらゆる金融機関から借財をして株を買い戻すか、いづれにしろ資産のちがいはどうしようもなく、奇跡でも起こらない限り勝ち目はなかった。

当時の織田商事は(ランチェスターの理論に従えば)尾張の大半を手中に治めていたが、動員できる資金は五千にも満たなかった。かたや今川物産は二万七千の大金を今回の株買い占めにつぎ込んでいた。

永禄三年五月十七日、信長に一本の電話がかかってきた。今川義元からであった。

「社長の座は約束してやるから、今川の傘下に入れ」という申し出であった。言葉そのものは柔らかだったが、語尾には有無を言わせぬ強引な凄みがあった。

翌十八日の夜、信長は部下を召集、宿老柴田勝家を議長に臨時会議を開いたが、会議は酒を酌み交わしながらの昔話や世間話に終始した。乗っ取りに対抗するすべがなく、もはや何を語っても机上の空論でしかなかったからだ。

「さすがに今回ばかりは社長の知恵も運も尽きたか」と列席した誰もが痛感した。

その時の有り様を記した呉服商の古文書によれば「・・・清洲城下ではリクルートルックの背広、飛ぶように売れし候、就職の時節でもなし、摩訶不思議なことにて候」とある。

その夜半、日付はすでに十九日となっていた。もはや信長に残された手だては、ラグビーによる民主的な戦いしか残されていなかった。信長は濃姫を側に従え、挑戦状を読み上げながら「敦盛」の幸若舞を舞った。

「わが織田商事は今川物産の攻勢に対し、最後の聖戦をラグビーに求めることに決意した。織田商事ラグビー部においては社命をかけた戦い、・・・各員一層奮励努力せよ」

早速、ファックスで今川物産本社へ挑戦状が電送され、続いて全国紙やテレビ局にも流された。

勝ち目はないが、負けるにしても日本には滅びの美学というものがある。試合に負けて世論に勝つ。勝った源氏より平家、頼朝より義経というように敗者のほうが賛美されることがあるのだ。

とんちで和尚を懲らしめ、民衆から喝采を浴びる一休のように、官僚社会の横暴、政治家の数の論理、永田町の論理に生理的な拒否反応を示す民衆を味方につけることが出来るかもしれない。毛沢東ではないが、人民の海だ。人民を味方につけた者が最終的な勝者である。金にものをいわせた傲慢な力のごり押しに対する弱者の反骨心、判官びいきの声が自然発生的に沸き上がることに信長は一縷の望みを託したのだ。

信長はラグビー部員を熱田神宮に召集させると必勝を祈願した。境内で信長から一人一人、紺とグレーの横縞のジャージを手渡された部員達はまさに荒ぶる魂、燃える闘魂と化し、感激と興奮で誰もが涙目で失禁をした。

信長は選手たちに檄を飛ばした。ラグビーはタックルに尽きる。タックルなくしてボールは奪えない。執拗に、懸命にタックルを繰り返せ。窮鼠は猫を咬むである。そのなりふり構わぬ姿に、マスコミは弱者故に滅ばざるをえない運命をネタに特別番組を組んでくれるかもしれない。そうなればしめたものだ。織田商事は死してマスコミの寵児となれる。

午前十一時、試合会場となった桶狭間陸上競技場の片方のスタンドはすでに織田商事二千、今川物産二万七千の社員で埋め尽くされていた。テレビ局からはご存じ、短小軽薄、おしゃべりだけが取り柄のキャスターが勢揃い、一様に悲壮な口調と表情を演技しながらの熱弁をふるい、会場周辺ではダフ屋が横行、人の賑わいに目をつけた露天商が軒を並べ、日光からは犬軍団まで興行にやって来る始末であった。

そこへ伝令が駆け込んできた。

「社長、今川義元は田楽狭間にて休憩しておりまする。しかも護衛の者もほとんどがラグビー観戦で、わずかしかおりませぬ。・・・奇襲するなら今かと・・・」

密かに間者として放ってあった社員梁田政綱から知らせを受けた信長は早速、服部小平太や毛利新助らをトラックやクラウンに分乗させると、田楽狭間に向かわせた。そして難なく交通事故に見せかけて今川義元の首をはねてしまった。

実は俗に足軽と呼ばれる織田の平社員二千人ほどが今川義元の首を狙い、ずっと狭間近辺をくまなく徘徊していた。さすがに不穏な動きを訝る里人も数多くいたが、誰一人として今川物産に通報しようとする者はなかった。彼らは信長の味方であった。

戦国武将ではただ一人規制緩和を唱え、自由経済を標榜とする信長に、里人は未来「明るい農村」を期待していたのである。里人に救われたと信長は心から厚く感謝した。

午後二時きっかり、通り雨の降る中、主審のホイッスルが桶狭間総合競技場に響きわたった。割れんばかりの大歓声に背番号九番、ハーフバックをつとめる藤吉郎はあまりの緊張感でぶるぶると震え上がってしまった。それもそのはず、彼は生まれて初めての戦、初陣だったのである。十番スタンドオフをつとめるのは冷静沈着な策士明智光秀。甲賀忍者で鉄砲の扱いに長けた滝川一益はフランカー。フッカーは宿老でチームの重鎮柴田勝家がいた。

試合が始まった。織田軍のタックルはすさまじかった。ボールを持つ今川の選手めがけ、必殺タックルの連続であった。試合開始前の練習では下馬評通りというか、見る人に格の違いを感じさせたが、大観衆を前にしての織田軍のタックルは今川の連続攻撃をことごとく封じ込んだ。

試合開始五分、解説者でスポーツ評論家でもある松尾有事が、

「立ち上がりは織田軍の気迫に今川軍が受けて立っています。・・・でもまあ、立ち上がりですから」

と肩が凝っているのか、首を左右に傾げてあくびを噛み殺し、そのついでにアナウンサーを見て退屈そうに笑った。

「それにしてもすごい気迫ですね」

だがタックルされた今川軍もさすがに全国レベルの実力チームである。サポートプレーが出来ているため、ブレイクした後のフォローが早く、ボール出しは安定していた。

モールから出たボールはスタンドオフへ。そこへ弾丸のような早さで織田軍のタックルが、たまらず倒れ・・、・・また矢継ぎ早のタックル、・・倒れ、拾ってつなぐが、またそこへ厳しいタックルが、・・・という具合に、織田軍はオフサイドぎりぎりの果敢なタックルを浴びせるが、やはり格の違いか、今川軍は攻めあぐみながらも執拗にボールを支配し続けている。

ボール支配率では九対一で今川軍が圧倒的に有利であったが、肝心の得点をまだあげられずにいた。小兵、拙兵ばかりの織田軍ではあったが、気迫と運動量では今川軍をはるかに勝り、大健闘といえた。

「これはその、いわゆるその、あれなんですね、スポーツにはやはり技術以前のその、つまりですね、はい、何と言っても守りの勝利ですね。セコイじゃなくてセコムなんですね。城壁の、はい、城壁のある家と同じなんですね、ここまでくると、はい」

いつの間にか野球帽にひげの濃い男が松尾有事を押しのけて解説席に座り、しきりに頷いていた。

時間の経過と共に織田軍の選手がグラウンドに倒れる光景が増えた。流血や肉離れ、脳震盪などは軽い方で、ひどいのになると鼻骨陥没、頭蓋骨骨折、頬骨陥没、アキレス腱切断、じん帯切断と前半半ばにしてすでに三十人ほどが負傷交代となった。中には救急車で搬送中、息を引きとる者もあった。

遅れてやってきた織田信長が貴賓席にどっかと座り、目を細め、満足そうな笑顔でじっと戦況を見つめていた。悠然とした信長の態度に藤吉郎だけは勘よく勝利を悟った。

「社長、この試合には千人の選手を登録しておりまする故、戦さで傷つき、矢に倒れた者が幾ら出ようとも試合の続行には差し支え御座らぬ」

「うむ、わかっておる。選手は銭で動くもの。銭さえ用意すればいくらでも集められるわ」

戦乱の世は武力による領地の略奪強奪であった。領地を持つ国人は自領地の保護と引き替えに戦国大名の配下となった。だから主従はその利害損得で決まった。国人たちにとっては自領地を守ることが戦の勝敗よりも優先したから、戦で形勢の不利な、あるいは頼りない大名にはさっさと見切りをつけた。より頼もしい大名の配下に寝返ることなど裏切りでも恥でもなかった。

戦国大名以下の国人、土豪、地侍、足軽などは本来、戦好きではない。有事の際、自領地や既成利権を守らんが為に仕方なく参戦しているだけである。彼らにとっては国取りも天下を取ることもどうでもいいことで、自領地や既成利権の安泰が究極の目的であった。

また、戦国大名がいくら攻撃の好機だからといっても農繁期に戦争などできなかった。国人たちにとっては収穫が第一であった。これはどの大名でも同じであった。戦さは農民の暇な農閑期に行われるのが常で、農繁期になると休戦するのが双方、暗黙の申し合わせであった。だから必然と長期戦などはできず、軍隊の行動範囲も限られたものになった。

天下を取るためには遠征や長期戦ができなければだめだと悟った信長はそうした従来の戦の在り方を根底から変革しようとした。

彼は年中、いつでも戦える武装武集団を作ろうとし、社会からドロップアウトした流れ者やはぐれ者を雇って兵とした。兵農分離の考え方である。この年中働ける傭兵が後の戦いに大きな威力を発揮することになる。木下藤吉郎や明智光秀などは一言で言えばどこの馬の骨かもわからない傭兵であった。ただ鎌倉以来、武士の係累として由緒ある家柄や名声を誇りとする旧来からの家臣と、これらの傭兵との間で様々な軋轢が生じた。そのことで信長に反発、離反をしたプライド高い家臣が数多くいた。

試合開始すでに三十分を経過していたが、電光掲示板の表示は依然として零と零だ。

「時間だけが刻々と過ぎていくようなのですが、どうなんですかね、実際に戦っている選手の気持ちとしては? 松尾さん」

「ええっ、どちらの気持ちですか?」

「戦前は優勢を伝えられていた今川軍の選手としては焦りみたいなものはあるんでしょうかね」

「いやあ、まだ前半ですからね。それはないと思うんですが、・・・ただいくらボールを支配して、これでもかこれでもかと攻めても、こうゲインラインを突破出来ないでいると嫌な感じがしてくるものですよ」

「つまりは織田軍のタックルが厳しすぎるということですか?」

「ええ、これほどまでの厳しいタックルだとは予想もしなかったでしょうからね。まさに早稲田の全盛期を彷彿させるような鉄壁の守りですね」

「体を張った、まさに社命をかけた戦いってとこですかね」

「ええ、その通りですね。近頃はタックルが甘くて面白くない試合が多いですからね。久しぶりに体を張ったいい試合を見せてもらって、正直言って感動しています」

「あっ、長いホイッスルです。織田軍、ゴール真正面の痛いところでオフサイドの反則をおかしました! ハーフがボールを持っていますが、狙わずに回すんでしょうかね?」

「いいえ、ここは得点狙いですよ。ずっと攻めあぐんでいますから、ここらでとにかく得点を上げ、選手としても有利に立ちたいところです・・・」

「あっ、やはり狙います。ハーフがゴールポストを指差しました。促されてキッカーが出てきました。もちろん蹴るのはジャパン候補のフルバック永末彦左衛門です」

永末は国人であった。国人とは小領主のことで地方の実力者である。戦国大名の多くはこの国人たちによる連合政権であった。

「ボールがゴールポストのど真ん中をきれいな弧を描いて通過しました。三点先取です。簡単な位置からのキックとはいえ、さすがは名手永末です」

その後、二ペナルティキックを決めた今川物産が九対零と優位に立って前半が終了した。しかし強烈なタックルを受けたダメージで、今川軍は肩で息をつき、頭をだらりと下げ、まるで敗残の兵のように疲れ切っていた。

ハーフタイムに今川社長の訃報を知らせるアナウンスがあった。大観衆のどよめきの声があがった後、一瞬静かになった。時間の経過と共にまた観衆のざわめきが大きくなった。観衆の多くは今川社長の死に疑問を持ったが、死はすでに現実のことである。今や自分たちの身や田畑のことで頭がいっぱいだった。われわれの領地はどうなるのだ。今川の応援団は不安と焦燥の中に落とし込められた。

藤吉郎は貴賓席に座っている信長を見上げながら、試合の疲れもどこへらや、(社長、今川の首を召し取ったとのこと。これで織田商事も安泰でござる。よくぞ、織田家の一大事を乗り切られた)と胸を熱くさせていた。

藤吉郎は若いころ、今川物産系列に勤めていたことがある。商社マンになろうとした藤吉郎は郷里中村を出、今川物産に仕える松下加兵衛の元で働いていたのだ。木下という名前も松下から連想してつけたものだ。数年働いたが人間関係に嫌気がさし、中村に戻った。しばらくぶらぶらしていた。あるとき躍進中の織田商事の評判を聞き、信長に立身出世の夢を託そうと入社希望したのであった。

大観衆の半数は「ラグビーの応援どころではない。早く帰って家族の安全と村の周囲を固めなくては・・・」とそそくさと席を立ち、残った者は織田商事による保護を願い、忠誠を誓う為、織田軍の応援にまわってしまった。

戦っている今川の部員も一部の重鎮をのぞいて例外ではなかった。後半が始まると、前半あれだけ優位であったフォワードもスクラムを押せなくなり、プレーも雑になって、バックスなどはサインプレーが決まらず、中にはわざとボールを落とす者さえあった。

すでに今川社長の死で勝負はついていた。終わってみると後半、織田軍は二ゴール二トライの二十四点、対する今川軍は前半にあげた九点だけであった。

試合の後、勝利を祝う讃美歌がバテレンの指揮の元、高らかに歌い上げられ、競技場一面にこだました。「アーメンするから鉄砲よこせ!」とはその時の信長の独白である。天文十二年に種子島に伝わった二丁の火縄銃は根来や堺、近江の国友などで盛んに製造され、全国に広がり、永禄年間に入ると、戦で負傷や死亡に至った直接の武器は刀剣を抜き、鉄砲が一位となっていた。

信長は鉄砲の効用に早くから注目していた。接近戦などは生命が惜しくてとてもできない、憶病なフリーターやプー太郎の傭兵にとって、飛び道具である鉄砲は最適の武器で、いくらでも欲しい武器であった。

美濃の斉藤攻略

信長は今川物産戦に勝利すると、東国の安全を確保する為、三河の徳川家康と同盟を結んだ。こうして北条氏康の脅威をやわらげた信長は、妻の実家である美濃の斉藤不動産の乗っ取り計画を実行に移した。

斉藤不動産は別名「美濃のまむし」と呼ばれ、精力剤のまむしがよく捕れる山林を所持していた。京阪神進出を狙い、銭のかかる傭兵を抱えた信長にとっては是が非でも取らねばならないドル箱の優良企業であった。

数年間に亘る苦労の末、永禄七年に東美濃を攻略、永禄九年には稲葉城攻略に着手、藤吉郎の一夜干しで有名な屋台「イカの墨俣城」を長良川の河原に出店、藤吉郎の義弟小一郎、蜂須賀小六の大活躍でやっとまむし取りに成功、赤まむしドリンクの販売権を得た。

織田商事が攻めあぐんだ原因はなんといっても傭兵にあった。銭で雇われた兵、フリーターだから責任感など皆無。死んでは元も子もないから命がけで戦う気などさらさらない。だから敵の数倍の兵数で攻めながら、情けないことに逃げ帰ってくることが度々あった。織田軍は情けないほど弱かった。自分らの村や田畑を必死の思いで守る斉藤不動産の農兵とは意気込みからして違ったのである。

元亀元年、武田信玄は信長の同盟軍であった徳川家康を浜松に攻めた。織田の援軍三千、徳川軍八千は三方ヶ原で武田軍と戦ったが、織田軍のあまりの弱さに家康は唖然としてしまい、ひどく落胆、同盟の解消を本気で考えだしたが、武田信玄が四ヶ月後に死去したため、織田は事なきを得た。

弱い兵ではあったが取り柄もあった。戦の他にこれといった仕事もなく、田畑を耕すわけでもないから、命令とあらば年中戦場で張り付いていることができたのだ。信長はその弱い兵を上手に使った。農繁期に戦を仕掛けるのである。敵兵の多くは農兵だから、仕事が忙しいからなかなか動員もままならない。それでも徴用に応じた農兵が駆けつけると織田軍は弱いから負けてさっさと退散する。徴用された農兵はやれやれと兵装を解き、また田畑へと戻っていく。戻ったのを確認して信長はまた兵を進める。その繰り返しで、いつしか持久戦、根比べに持っていく。

やがて敵内部に厭戦感が満ちてくる。そのころを見計らって、信長は和議の使者が里に向け放つ。信長につけば戦はないと。誰も戦などしたくはない。平和を愛する農民だ。戦争とはいえ人殺しなどしたくない。信長方につけば、もう攻められることはない。そうなれば農業に専念できる。その方がいい、との農民からの突き上げを食らった国人や土豪たちが信長支持にまわるという次第であった。

信長は弱い兵のために兵器にも工夫をこらした。三間間中の長槍を足軽に持たせたり、鉄砲隊を連射可能の三段構えとしたり、また大坂木津川の毛利軍との海戦では鉄甲船を作ったりした。戦場などですぐ板塀や砦を築かせるのも、自軍の弱い兵の心理を熟知してのことだった。

斉藤不動産を乗っ取った信長は本社を岐阜に移し、越前で亡命生活を送っていた足利義昭を引き取った。義昭は松永久秀らによって殺された前将軍義輝の弟で、室町幕府最後の将軍である。

翌年の永禄十一年のことであった。

「社長、いよいよ待望の上洛の時機が到来したようでござる。北近江には浅井物流が北陸の朝倉酒造を牽制、抑えてくれましょうぞ」

と明智光秀が進言した。

「うむ・・・」

そう言って信長はしばし瞼を閉じると、瞑想に耽った。こう書くと遥か北陸路を信長が思い浮かべているかのような錯覚をするが、当の信長は風邪で病欠している森蘭丸のことを浮かべていた。英雄色を好むというが、信長には女の噂はない。なぜなら蘭丸という美少年の男妻がいたからだ。戦国時代の名将には男と女の二刀流が多かったそうだが、信長もその二刀流の一人であった。

信長の傍らには柴田勝家がいた。彼は若かりし頃のお市のまだ幼さの残る白い頬を思い浮かべ、過ぎ去った日々を懐かしんでいた。 かつて柴田勝家は信長の妹お市に恋情を抱いていた。柴田にとって、お市の美貌と気品は近寄りがたいほどの神聖さと輝きを持っていた。(神聖と形容したが、神田聖子の略ではない。清くてけがれのないという意味の神聖である)

お市が浅井家へ嫁いだ日の夜、剛将柴田勝家は「真夜中のギター」を枕に「ひとり寝の子守歌」を唄って朝まで号泣した。

義昭を奉じて上京した信長は将軍職に就いた義昭から副将軍のポストを与えられたがこれを辞退した。

この時、信長の本陣は越前にあった。

織田商事は酒造業界への参入を謀り、その攻略のため、乗っ取り相手である朝倉酒造と睨み合っていた。

その作戦会議の最中、シロネコヤマトのトラックが陣営の前で止まった。

受領印を押し、荷物を受け取った係の者が、

「社長、お市の方様からの宅急便でございまするぞ」と信長に声をかけた。

お市の名が出て、いつも難しい顔をしている柴田の頬がびくっと引きつった。

信長は中を開けて驚いた。なんと両端を紐で縛った小豆袋がひとつ入っていたからだ。これには何かわけがある。じっと見つめていた信長の顔からさっと血の気が引いた。この奇妙な結び方は、お市が夫浅井の裏切りを密かに信長に伝えるものであったのだ。頼りとしていたお市の夫浅井長政が永年の朝倉酒造との同盟関係を捨てきれず、織田商事に反旗を翻したことを信長は悟ったのだ。

前には朝倉、背後には浅井と、織田商事の本陣は両者に挟まれていた。今攻め込まれたら逃げ場がない。

「お市は夫長政より兄のわしを見捨てなかったということだ。可愛い妹よ、感謝するぞ」

その日、福井から滋賀にかけての有線放送ではかぐや姫の「妹よ」が何度も何度もリクエストされた、と歴史書には書いてない。

浅井の裏切りを知って急遽、信長は闇夜に紛れて裏街道を必死の思いで退散した。そのとき百戦錬磨のベテランでも難しいとされる、しんがり(退却のとき最後尾に位置し、敵の追撃を防ぐ役目)を務めたのは藤吉郎で、彼の人事部での評価がまた一段と上昇した。

その後、陣を立て直した織田商事は朝倉浅井の連合軍を五万四千という大観衆を飲み込んだ姉川陸上競技場で破ることになる。得点は十四対六と僅少差だった。この試合で織田商事の全国大会出場への初出場も決まった。

日叡山焼き討ち

その翌年、織田商事は朝倉・浅井連合軍に大量応援団を動員、汚いヤジで織田軍を罵り続け、荘園解体の野望を阻止する最大の団体である、憎き日叡山を攻めることになった。

円高で海外製品の値下がりに目を付けた織田商事は、バテレンを利用してヨーロッパから装身具等を運ばせ、国内で販売し、莫大な利益を得ていた。後世に南蛮文化と呼ばれるものだが、京都を中心に各国にバテレン屋敷と呼ばれる店舗を構え、大売り出しの日などは嬉々とした女子供が前夜から列を作って並ぶほどの盛況さであった。

総合商社である織田商事は半胴体の業界大手でもあった。織田商事系列の経営するテレクラやイメクラなどが折からの一億総全裸ヘアーブームで大繁盛、若いギャルから主婦に至るまで電話にかじりつき、気に入れば朝から入れたり出したりの大狂乱。素人と玄人の区別がなくなり、この分野ではめでたく規制緩和となったが、雄琴のソープランドで淫乱座という職能組合に所属する「働く女たち」は大弱り。これでは基本的な生存権すら脅かされると、憲法を盾に嘆いていると、坂本の馬借から世の中に「かけ込み寺」という便利な寺があると聞き、藁をも掴む気持ちで駆け込んだのが日叡山であった。

ところが当時の日叡山は旧態依然の教えである戒律を頑なに守り、禁欲的な生活を送る山法師たちの修行場とされていた。彼らは下界で日夜繰り広げられる男女の恍惚や悦楽の声に悩まされてもいた。我慢にも限界があると、如意棒ならぬ、いきり立った男棒を振りかざして暴れていた。そうした自らの性的欲求不満を晴らすため、教団幹部は風俗の乱れを絶つべしと、大々的なキャンペーン「君もエイズになりたいか!」を展開していた。

エイズキャンペーンに対抗するため、織田商事では急遽、家庭衛生用品、たったの三こすり半で、悶絶、絶叫、随喜の涙と共に昇天まで可能という、男性復権間違いなしの優れたコンドーム「異母ころり」を開発、サンプルを大量に日叡山山中にばらまく作戦を展開、山法師の欲情を煽り、庫裏で修業をする雄琴の女とドッキングさせることに成功した。最澄もびっくりの破廉恥きわまりない乱交。激しい腰の動きで数日間に渡って山が揺れたという。山が動くと言った土井委員長の言葉は間違いではないことが証明された。

織田商事に謀略によって、キャンペーンはあえなく頓挫、山法師たちは雄琴女たちによって精根まで抜かれ、織田商事の社員たちが野草摘みハイキングと称して山道を登る頃には足腰も立たなくなっていた。この事件があの有名な元亀二年の「日叡山の焼き討ち」ならぬ「日叡山の抜き打ち」である。

「元亀二年、九月十二日、叡山を取り詰め、根本中堂・三王・二十一社を初め奉り、霊仏・霊社・僧坊・経巻、一宇も残さず、時に雲霞の如く焼き払い、灰燼の地となるこそ哀れなれ・・・諸卒四方より鬨の声を上げて攻め上る。僧俗・児童・智者・上人一々に頚を切り、信長の御目にかけ、是は三頭においてその隠れ無き高僧・貴僧・有智の僧と申し、そのほか、美女・小童その員を知らず、召し捕れ召し連れ、御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、是の御扶け成され候へと声々に申し上げ候といえども、中々御許容なく、一々に頭を打ち落とされ、日も当たらぬ有り様也。数千の屍、算を乱し、哀れなる仕合也」信長公記

信長上洛の頃の畿内

「ところで大坂支店の売り上げじゃが、三好三人衆やわが社の得意先を荒らしとった松永の息の根は止めたんじゃろうな」

その頃、三都物語(京都大阪奈良)を支配していたのは松永久秀であった。

彼は三好長慶の家臣でありながら、権力と富は相当なものであった。宣教師ルイス・フロイス「日本史」の中で「松永はその知力と手腕とによって、家臣であるにもかかわらず、公方様と三好殿を掌握していた。彼は甚だ巧妙、裕福、老獪でもあるから、公方様や三好殿は彼のすることにたてつけなかった」と天下を支配していた有り様を伝えている。

永禄八年、三好長慶の死後、松永久秀と三好三人衆は挙兵して入京、将軍義輝を攻め殺し、弟の義昭は近江へ逃れた。その頃から三好三人衆は松永久秀の力が強まることを警戒、仲が悪くなる。やがて両者ははげしく対立し、奈良や河内に至る広範囲に渡って激戦を繰り返すことになった。永禄九年十月十日の夜十二時、松永軍は三好軍が陣取る東大寺に夜襲をかけると、大仏殿に火を放った。

永禄十年、織田商事の入京を知ると、戦に疲れていた松永久秀はさっそく信長に帰順、信長から大和国支配を認められ、その平定へと動いた。

元亀元年七月、三好三人衆は大坂は野田・福島という阪神沿線に塁を築き、義昭・信長に対抗した。知らせを受けた信長は岐阜から来坂、九月には野田・福島を取り囲んだ。この信長の動きに石山僧事の理事長顕如は信長の目的は石山僧事にあり、と地方の門徒衆に一揆を起こすよう檄を飛ばし、石山僧事も周辺の兵を結集して信長に対した。ここに十一年間の長期間に亘る戦いがはじまることになる。これを石山合戦と呼ぶ。

石山僧事との戦いが長期戦の様相を呈しはじめたある日のことであった。信長軍の社員として、石山僧事との販売合戦を展開していた奈良信貴山支店長であった松永久秀が突然会社を辞した。そして敵であったはずの石山僧事の資金援助を受け、大和郡山にトゲザラスという名の大型玩具店を出した。利に聡いというか、変わり身の早い男であった。

開店後のしばらくは静かに営業をしていたが、時が経過するとひどくなった。織田商事の所持するゲームソフトの違法コピーをはじめ、特許商品として世界的にも評価の高い、手のひらを基板に載せるだけで思っていることを自動作成をするワープロ。身につけているだけでイジメを感知、勇気百倍になるトモちゃん人形の意匠登録を無断使用するなどの無法ぶりで、次から次へと類似商品を製造販売し、織田商事大坂支店を手こずらせていた。織田商事創業以来の社員ではなかったにしろ、二度も信長を裏切った男で、織田の松永に対する怒りもすさまじいものがあった。

浅井家の滅亡

天正元年、信長は策略に長け、実力もないのに何かと逆らい、プライドだけが高く、姉川の試合では朝倉浅井の応援席に座っていた義昭を京都から追い出してしまった。

同じ年、ラグビー部は三年連続全国大会出場をかけ、またしても朝倉浅井の連合軍と戦うことになった。会場となったのは敵地、福井県営陸上競技場であった。

「さっそくですが、平尾さん。今日のゲームの見どころなどを、テレビでご覧の初心者の方にもわかりやすく、しかも簡単にお話し願えませんか? 」

「はい。そうですね? 何と言っても今日の試合は全国大会を賭けた大事な試合ということですから、双方とも気合い充分かと思われます」

「はい、そうですよね。昨日の両チームの練習風景などを取材しておりましても、ひしひしと気迫というか、今日に試合に賭ける意気込みが伝わってくるんですね・・・」

「ずばり勝敗を決するのは織田軍のタックルに尽きると思います。前回の対戦では朝倉浅井軍のスピードに翻弄されたきらいがあって、織田軍の得意とするタックルがそのスピードについていけず、確か、大苦戦したんですよね」

「ええ、そうでしたね」

「今回も同じ事が言えると思うんです。朝倉浅井軍の仕掛けの早い展開ラグビーに織田の選手たちがついていけるかどうかですね」

「もし、できたらどうなるんでしょうか?」

「そうなれば優位は動かないと思いますよ。しかし前回、悔しい思いをした朝倉浅井からすれば雪辱戦になりますからね。実力的には織田商事の優勢は動かないところですが、さて、どうなりますか。とにかく楽しみの多い試合ですよ。ああ、それと一つだけ懸念材料があるんですよ。実はプロップの柴田君にいつもの元気がないんですよ」

「怪我でもしてるんでしょうか?」

「いいえ、怪我ではないでしょう。彼は自己管理の出来る男で、もし怪我なら試合には出ませんから」

「なら、どうして元気がないと?」

「つまりは精神的な・・・」

そこまで言って平尾は口を閉じ、人差し指を立てて口に当てると、しっと無声音で言った。アナウンサーには何のことだかわからない。ぽかんと口を開けていると、平尾はペンを取って筆談をした。

「・・・・・」

「??・・・!!」

しばらくするとお市と茶々姫とが貴賓席に腰をかけ、青白く悲壮な顔で試合開始を心配そうに待っている様子がテレビの画面にアップで映し出された。

筆談で平尾の言わんとすることを理解をしたアナウンサーがカメラマンに、お市を激写すべしとの指令を出したのだ。

「テレビでご覧の皆さま方の中で、この美貌のお方をご記憶の方は多数おられることでありましょう。そうです、あのお市の方様です。心なしか暗い影、抜けるような色の白さは青みがかり、この試合に家運をかける母子の姿に、私は久しく忘れていた感動という言葉を思い出しました」

他人に悟られたくない、隠蔽したい悲しみや苦しみの深淵に、マスコミは無断で、しかも土足で踏み込んでおきながら、抗議をすれば報道の自由がどうのこうのと屁理屈ばかりを並べたてる。今も昔も変わらぬマスコミの悪いくせだ。平尾は苦虫をかみつぶした。

さて試合のほうだが、連合軍が開始早々、ペナルティを得、三点先制をしたが、自力に優る織田軍は落ちついた試合運びで、前半を終了して八対三で折り返した。

その間、お市親子を何度も画面に映したテレビ局に、他人の不幸を三度の飯より好きだという「のぞき趣味の視聴者」から特別報道番組を作るようにとの要請がひっきりなしにあった。視聴率しか興味関心のないテレビ局ではさっそく仮題「女たちの代表決定戦」と名付け、明日にも会議が開かれるという入れ込みようであった。

「平尾さんがご指摘されましたように、前半の柴田選手の元気のなさ、動きの悪さには目に余るものがありましたね」

「残酷ですよ、こういう試合に彼を出すのは」

放送席の言葉が首脳部にも届いたのか、柴田はベンチに下げられてしまった。

後半、朝倉浅井の連合軍は必死の反撃を行い、織田ゴール前に何度も迫り、得意の展開ラグビーでバックスを左右に走らせ場内を沸かせたが、一トライをかえすのがやっとで、残り時間も五分を切っていた。得点は十八対六であった。

その時、お市に動きがあった。もはやこれまでと敗戦を覚悟した浅井長政がお市と茶々たちに競技場を去るよう命じたのだ。

「夫婦といえども落日を共に眺めることはない。お前たちは織田に帰るがいい。これは長政最後の願いじゃ、どうか聞き入れてくれ」

競技場を去るにあたり、急遽、車の手配からその護衛を命じられたのは柴田の家臣たちであった。カメラが逃げるお市たちを追跡した。試合はもうどうでもよく、マスコミの興味はお市親子の行く末であった。

長篠の合戦

伊勢長島での一向一揆ではその報復として、信長は長島工場の社員二万人を情け容赦なく、無惨にも解雇するという冷酷非情な一面をみせた。また信長は同じく一向一揆の抵抗に手を焼いていた徳川家康と同盟を新たにした。

天正三年、織田商事は武田木材と中部東海の代表決定戦を長篠球技場で行うことになった。

「上空は一面の青い空、球技場のセンターポールに掲げられた両社の旗は無風のせいか、静かに垂れております。季節は晩秋、気温は肌寒くないほどに心地よく、競技場全体をすっぽり取り囲み、あでやかな紅や黄に色づいた木立の群生からは、すがすがしい冷気が漂ってきます。・・・あと十分ばかりで熱戦の火蓋が切られようとしております。超満員にふくれあがった観客席では両軍の旗が入り乱れて揺れております。・・・グラウンドは昨日の雨で湿り具合も程良く、まさにラグビーには絶好の、ベストコンディションかと思われます」

「ほんとにそうですね。僕もやりたくなってきましたよ」

解説席でマイクに話しかけているのはミスターラグビーと呼ばれる平尾政治である。

武田木材のラグビーといえば「疾如風・徐如林・侵略如火・不動如山」をモットーに、質実剛健を重んじる名門チームである。ラグビーといえばチームプレーだが、先代より一騎当千、個人プレーを褒め称える体質がこのチームにはある。それがこのチームの魅力でもあり、欠点でもあった。また会長であった信玄の死後、あれほど結束を誇ったチームワークにも色々な問題があるという噂である。

対する織田商事のラグビーの特徴だが、今川軍との試合でも見られたように、厳しいタックルを何よりの基本とするチームである。今日の試合でも見られることになると思うが、フォワードがサイド突破をはかり、後続の者が繋いでいく三段構えの攻撃は特に迫力がある。また立て板の砦を彷彿させるようなモールプレーは南蛮人相手にも充分通用するほど強固である。その他、有望選手の獲得には積極的で、活躍した選手には織田社長直々に褒美が出るが、気迫のない者は首が飛ぶという怖い噂もある。

また日本のチームの中では南蛮人との交流がもっとも盛んで、欧米の新しいプレーを進んで採用、常に奇抜な作戦やプレーを好むところがある。とんでもないポカも時にはするが、部員には人気者が多く、元気もよいのでファンの受けはよい。

期待された両者の対決であったが、試合は織田軍の繰り出すフォワードバックス一体となった連続攻撃の前に武田軍の誇る騎馬軍団はたじたじ。密集からの縦突進も単発で、立て板タックルにあってゲインラインをなかなか切れない。

後半になると武田軍は防戦一方になり、自軍ゴール前で釘付けとなった。終わってみると織田商事の四十二に対して、武田木材はわずか二ペナルティーの六点に終わった。完敗であった。試合後、屈辱のノートライによる敗戦の責任を取って社長の武田勝頼が自害をし、武田木材は硝煙の中に消え去った。

その試合で織田商事は三千丁もの、鉄砲と呼ばれる応援団を動員した。その数の多さにはただただ驚くばかりである。

パレス本願寺

石山僧事との戦いにようやくのことで勝った信長であったが、苦戦の原因は毛利三ツ矢化学が僧事の後ろで糸を引いていたからであった。信長は毛利に異常なほどの敵愾心を燃やしていた。もはや信長の天下人を妨げるのは毛利元就しかいなかった。

毛利三ツ矢化学は「九十日で一ポンポン」でお馴染み、蚊取り液からはじまり、児童ハエ叩き機、モグラ叩き、蛇いらず、と大袈裟だが生死に関わる、いわば殺しを専門に伸びてきた化学薬品会社である。

これからの話は公安上層部や政府の要人以外は知らない、トップシークレットの話だからくれぐれも内緒に願いたいが、読者へのリップサービスも考えなければいけない時代だという認識から、この本の読者にだけこっそり暴露をするが、重ね重ね公言は控えてもらいたい。なぜなら言った者が笑われるからだ。

実は毛利三ツ矢化学はあの偏執知識集団である「かたつむり」と裏で技術提携を結んでいるのだ。「かたつむり」は数年前から、予算の少ない国立大学に在籍、資金不足や学内派閥のために思う存分の研究が出来なく、失意の底に喘いでいる頭脳明晰、卓抜な研究者を投薬で洗脳し、化学平気の開発に従事させている集団である。

毛利元就がわずか三千の兵を率い、陶晴賢が誇る水軍二万を安芸の厳島で撃破した平気、「ナミちゃん」や「とらちゃん」を開発した集団であると言えば理解が早いだろう。三千で二万を撃破したのである。この「かたつむり」という集団の、兵器ではなく平気を作っているという認識からして彼らがいかに常識を欠いているかが判る。

織田商事も石山僧事との販売合戦で、毛利三ツ矢化学がひそかに撒き散らした神経ガス「エリちゃん」で散々な目にあった。伊勢長島の一向一揆鎮圧の際も、その神経ガスの前に織田商事は散々に苦しめられるという苦い経験があった。

ところが毛利三ツ矢化学は二百二十六戦無敗という、とてつもない連勝世界記録を持つ全国社会人ラグビー最強の軍団であった。にわかに信じがたい数字だが史実である。信長は無敗を誇る毛利軍に策士明智光秀を当てるべきか、知恵者羽柴秀吉を当てるべきか迷った末、秀吉を選んだ。この選択こそ信長の命運をも決めることになるのを知る由もない。やがて秀吉を長とした毛利征伐軍が編成され、秀吉は歓呼の声に送られ、中国に向かう馬上の人となった。

ある日、京都で落ちついた宿を探して下さい、と秘書課から指示があった。担当の総務部員の机の上にはたくさんのパンフレットが山積みされていた。彼は資料提出書の備考に本能寺パレスを推薦すると書き添えた。だが最終的に宿を決めるのは信長自身である。

やがて秘書課から電話がかかってきた。

「宿の件ですけど、社長が大徳寺エッセにと決められましたから、五十人ばかりの予約を取っておいてください」

「なに、大徳寺エッセだと!」

電話で報告を受けた総務課員は耳を疑った。課員は机の中から小説「信長」を取りだすと、総務課長である丹羽秀長に進言した。本を読んだ丹羽課長は早速、信長を訪れた。もちろん叱責は覚悟の上であった。

「馬鹿者めが。土佐の板垣が言うただろうが、板垣死すとも信長死せず、じゃ。わしは死なぬ! 生きてみせる」

「社長、それでは歴史に逆らうことになりまする。後世にどのような悪影響をおよぼすことやら、考えるだけでも空恐ろしいことでございまする」

「ええいっ、歴史的史実と食い違うだとか、しがない総務課長であるお前が何の権限があって、社長のわしの行動をいちいち監視監督する気じゃ」

「何人といえども歴史は変えられません。それが歴史に名を残す人間の宿命でござる」

「なんじゃと! へ理屈を言うな。よいか、耳糞をほじくってよおく聞け。よいか、わしの歴史はわしが作るのじゃ、やかましいわい。とっととうせろ」

「右も左も規則、規則とやかましい。わしは規則が一番嫌いなのは蘭丸、お主ならわかってくれようのう・・・」

「はっ、ははっ、よう存じておりまする」

信長は世界でも初めて自由な流通経済を謳った男である。

信長は武士による一元支配の社会を目指していた。鎌倉、室町幕府は武士が支配者となった社会ではあったが、広大な荘園を所有し、財力に優る公家や寺社は遠慮なく政治に口出しをし、時の為政者たちを屈服させ、真の武家社会とはいいがたかった。

応仁の乱以降、各地で戦乱が起こり、荘園からの年貢の搬入が滞りだすと、寺社は物流に携わる商人が作る座に特権を与えてこれを保護し、その見返りとして上がりを取り、年貢の代用とした。

洋の東西を問わず、商人は昔から組織集団を作った。その商人の集まりである座は今も昔も一様に閉鎖的である。なぜなら、価格の高値安定や既得権を私物化するなど、既成業者の利益を守る事に専念する集団であるからだ。いずれの座にも属さない潜りの業者は徹底的に閉め出され、盗賊同様、重罪扱いを受け、市場から排斥された。

座を壊せば寺社の収入源は途絶え、それまで業者が寺社へ支払っていた保護料ともいえる上がりを自分の元に集中することができる。それはまた寺社の政治介入や信仰による社会支配を押さえることにもなり、武士の一元支配が可能となる。それに傭兵を雇うにはなにより銭が要った。信長はその資金を座の束縛から開放された商人に求めた。また関所を廃止して往来を自由とし、活発な商業活動をさらに可能にするため、道路の拡張改修も行った。これが一般に楽市楽座と呼ばれるものである。

徹底的な合理主義者で、人の意見など全く聞かない性格だった信長は敵も多かったが、この座の廃止によってその利権を貪っていた寺社からの恨みを買うことになり、一向一揆等の社会騒動に悩まされる遠因になった。

十六世紀前後の日本には大陸から農耕に関する新たな技術や農作物がどんどん流入してきた時代であった。水稲の品種改良も進み、早稲・中稲・遅稲の作付けも普及、農民は土地に応じた作物の栽培、適地適作を考えるようになった。また鉱業技術も改善され、新たな採掘技術や鋳造技術の向上などで需要や供給も大幅に増加した。信長の活躍した前後百年で、日本は人口で二倍、国民総生産では三倍にまでなった。まさに経済が大成長した時代であった。

「加藤とかいう学者などが行革審議会を組織し、幕府の元で規制緩和とやらを推進しておるはずではないのか。一体あれはどうなっておるのじゃ」

「社長、お言葉を返すようですが、その話はずっと後の時代の出来事でございまする。今の時代には規制緩和などござらぬ」

「ええい、時代もへちまもないわ。いっそ、作者に一任してはどうじゃ」

「な、な、なんと、社長。それはあまりにも危険な選択にて御座る。なにぶんにもこの本の作者、かの柴遼次郎大先生が学んだ高校の後輩では御座るが、肝心の歴史についてはちんぷんかんぷん、何もわからぬ者にて、忍びの者が高校の金庫を開け、通知票を取り出し、調べましたるところ、・・・」

「ああ、もうよい。それ以上言わぬともわかるわ。わしはどうすればよいのだ」

「ですから何ごとも歴史通りにご行動願いたく・・・」

藤吉郎は丹羽長秀の羽と、柴田勝家からは柴をもらって羽柴秀吉と名乗った。その羽柴秀吉が備中高松城を取り囲み、歴史的にも有名な水攻めを展開していた頃、岐阜城のある一室では総務部員や経理部などの若手社員たちが集まり、業者から頂戴した生八ツ橋をパクつき、宇治茶を賞味しながら、歴史話に花を咲かせていた。

「社長はパレス本願寺で明智部長が雇った刺客によって殺されることになっておるのじゃが、・・・」

その時、信長は数人の部下たちと共に部屋の前を通りがかった。

「こら、滅相もないことを申すでない。社長は戦国の世に生まれた巨人。巨人の星なのだ。貴公は「巨人は永遠に不滅だ」という歴史の名言を知らぬのか」

大声をあげながら、野球帽を被ったひげの濃い男が部屋から飛び出してきた。そして信長に気付くと、最敬礼をして立ち去った。

「誰だ、今の男は? いいことを言う男ではないか。誰か名を知っておる者はおらぬか? 」と信長が側の者に訊ねた。

「確か、かつては野球選手で、今は警備会社の雇われ道化者かと存じまする。怪しい者とも思えませんが、いかが致しましょうぞ」

「野球をやっておったとな。ふむ・・・野球部は長い間、同郷のよしみということで三十四番に任せておるが、どうもこの頃は年のせいかおとなしくなったみたいじゃのう。あまり喧嘩もせんし、テレビにも出なくなった・・・。うーむ、そうじゃ、三十四番は更迭し、今の男に褒美として監督のポストを与えることにしよう」

というわけで、信長の一声でひげ男は再び球界に復帰することが出来た。

信長は総務課員の話などまるっきり信じていないが、思わぬ立ち聞きした話を創作として面白いと思ったのだろうか、総務部員に歴史の先を述べよ、と命じた。

「ははっ、恐れながらも申し上げまする。歴史によりますると社長は本願寺で明智光秀の謀反によって落命され、その弔いは羽柴様が大山崎で討つとあります。その後は・・・」

「どうなるのじゃ、早く言わぬか!」

「だからその後、羽柴様とここにおられまする柴田様とが賎ヶ谷で覇権を争われまする。そして・・・」

「そ、そして、ど、どうなるのじゃ?」

なぜかその場には北陸にいるはずの柴田勝家がいた。彼は身を乗り出すと総務課員に詰め寄った。

「で、で、です、から羽柴様が、・・・」

「そうか。それでわしが猿に負けるというのじゃな。してお市はどうなるのじゃ? 」

「えっ。はっはっい。お、お市の方様はつまりその、・・・」

「面白い話じゃ、遠慮なく言うてみい」

信長が横から後押しをした。

「で、ですから、お市の方様は柴田様とご自害を・・・」

その言葉を聞いた柴田は思わずうれし涙を流した。普段は何かにつけて前夫浅井長政と比較して小言を言うお市であった。そのお市が歴史では何と自分と運命を共にするという、柴田にすれば心躍るいい話であった。

柴田は武士の子として生まれ、幼少の頃より武芸一筋に励んできた。質実剛健を地でいくような男であったから、浅井長政のように女を喜ばすセリフも優しさも持ち合わせていなかったのだ。

子連れの出戻りとはいえ、好きで好きでたまらなかったお市と所帯をもてたこと自体、柴田には夢のようであった。そんな柴田だから、惚れた弱みもあって、お市には手も上げず、子供たちには声も荒げなかった。

「しかし茶々様らは延命され、のちに羽柴さまの・・・」

その時、柴田の顔が翳った。

「なに。今、何と申した。羽柴だと! 許さん。断じて許さん。あの猿にだけは断じて許さん」

柴田は脇差しに手をかけると、総務部員をぐっと睨んだ。羽柴のことを猿と罵倒するが、彼の顔もほとんどゴリラであった。

「柴田のためにも何とか歴史を変えられぬものか」

信長は義弟である純朴な柴田の怒りを少しでも鎮めようとして横から言った。

総務課員は目を閉じ、口をへの地に曲げ、強く首を横に振るばかりであった。

「どうしてもと仰せられるのなら、拙者にいい案がござるぞ」

前田利家が懐柔案を申し出た。

「利家、いい案とは何じゃ、遠慮なく申してみい」

「結論から先に申し上げれば、社長が明智の戦矢に倒れなければ、羽柴も柴田殿の悲劇もなく、丸く収まるのでござろう」

「さようじゃ」柴田が頷いた。

「でもそれでは歴史に反しまする」

「そこでじゃ、総務課員と柴田殿。この利家の考えでござるが、つまりは社長を二人作るというのはどうであろう。そうすればパレス本願寺にも宿泊、大徳寺エッセにも宿泊と、これで全てが解決するではござらぬか」

「どういうことでございましょうか、前田様」

「影武者じゃよ、影武者を使うのじゃ。影武者を歴史通りにパレス本能寺に宿泊させ、信長様ご本人は当初からのご希望通り、大徳寺エッセに宿泊されるのじゃ」

「か、か、影武者でございますか・・・」

「貴公の持っておる小説には社長に影武者がいたと書いてあるか? どうじゃ・・・」

「??・・・い、いいえ。そういえば社長に影武者がいたとはどこにも書いてありません」

「影武者と言えば信玄やヒットラーがつとに有名でござる。信長様にはそのような噂は聞いたことも、本で読んだこともござらぬ。まさに歴史の盲点ではござらぬか。これは「空白の一日」で江川と代議士秘書が使った手の応用でござる」

「うむ、なかなかの妙案じゃ。わしは気に入った」

柴田は口元をほころばせ、持っていた扇子でぴしゃりと自分の膝を叩いた。

「・・・ふーむ、わしの影武者とな・・・。なんだか、面白うなってきたわい。よし、前田の案を採用するとしよう。総務の者、早速そのように手配しろ!」

信長はまだ釈然としない総務課員にそう命令した。

関ヶ原の戦い

慶長三年度の全国社会人大会は下馬評通り、毛利三ツ矢化学と織田商事がそれぞれ順当に勝ち進み、慶長四年一月七日、決勝戦を迎えた。

あいにく国立競技場は第二関東大地震による被災で一部倒壊したために使えず、中部の関ヶ原競技場に変更となった。

試合開始時間は午後二時。各スポーツ紙はこの試合をこぞって天下分け目の決戦と称し、テレビ局は関ヶ原の戦いと囃し立て、盛んに報道特集番組を組んだ。

「まさに天下分け目の戦い。決勝戦の見どころはフォワード戦だ。そこで両チームのフォワードの特徴を私見をまじえて占ってみた。

真っ赤に燃える炎のジャージを着る毛利軍のフォワードは伝統的にスクラムが強い。軽量フォワードだが、フォワード八人がよくまとまり、押す力が分散せずに堅く一つに束ねられている。つまりは三ツ矢の逸話通りにパッキングが良く、しっかり固まっているから軽量であっても鋼のように強い。

対する紺とグレーの横縞ジャージを着る織田軍のフォワードは巨漢ぞろいだが、スクラムやスローイングなどのセットプレーはあまり得意ではない。むしろボールを持って、個人技を生かした豪快な縦突進を得意とするパワーが売り物のフォワードで、いずれにしろ好ゲームが期待されるだろう」放置新聞

「関ヶ原の戦いとは、社長、これはいくらなんでも歴史的事実に反しまする。即刻、お取りやめ下さいませ」

そう言うのは総務課長の丹羽長秀である。

「何を言うか、長秀のたわけ者。よく聞くがいい。時代というのはな、いつも自らが切り開くものじゃ、軍事同盟を結んでおるので大きい声では言えんが、誰かのように「鳴くまで待とう」とじっと待っておるのは性に合わんし、この信長は大嫌いじゃ!」

歴史を知っている柴田勝家はこれには逆らえず、

「は、はははっ・・・」

と頭を垂れるしかなかった。

(ええいっ、なるようになれだ。歴史が変わったとしても致し方ない。元はといえばあの明智が悪いのだ。あの明智の裏切りさえなかったら社長の天下人は間違いなかったのだ。それにわしも猿に負けるという汚名も残さずにすむ。引退後も命の限り、愛するお市と仲良く暮らせ、義理とはいえ茶々姫も猿も囲い者にならなくてすむ)

そう思うと勝家は信長に心から同胞心を持った。(そうと決めたら、この勝家も男、社長のためにもうひと働きいたしまするぞ)と柴田は心の中で信長に忠誠を誓った。

「参考までに申し上げまする。慶長四年といえば社長は六十五歳でございまする。ですが、元就様は何と百三歳でござる。いくらなんでもこれでは化け物でございまする。毛利はこの時代、元就の孫である輝元が家督を継いでおりまする」

と森蘭丸がシステム手帳の年表を繰りながら女声で言った。

「小説じゃ、小説。これは小説なんじゃ。小説は面白ければいいんじゃ。相手は元就じゃ。孫では面白くない。歴史に反する記事を書いたとしてもこれは小説じゃ。創作じゃ。責任などないわ。これは小説を目指す馬鹿な男が書いた戯言の集まりじゃ。貴公のように難しく考える必要などないわ。・・・それに、どうでもよいが、さっきからわしの近くに寄るでないと、いくら言ったらわかるのだ。嫌いになったとかどうだとか、訳のわからんことばかり言いくさって。男同士で好きも嫌いもあるか!」

「まあ、ひどい、ひどいわ。あんまりだわ、いまの言い方。それでは私の処女を返して下さい」

「男のくせに処女だなんて、全く気持ちの悪い奴だ。牢屋にでも放り込んでおけ!」

この信長は本願寺パレスに泊まるはずの信長であったが、聞き違えて大徳寺エッセに泊まってしまった影武者、つまり影長である。本物の信長はというと、大徳寺エッセの入口で信長の名を騙る無礼者として門前払いを食らい、仕方なく本願寺パレスに泊まり、歴史通り、明智によって首をはねられてしまっていた。だからこの時代に生きていたのは影長であったが、影武者の噂のない信長だったので本物として通用した。ただ、信長の男根を何よりもよく知る正妻濃姫は「違いが分かる女」で、影長であることを見抜いていたひとりだが、性欲が強かったことと、ゲイでなかったことで大歓迎、長らく忘れていた夜の営みでは喜悦の声まであげ、「第二の性」を謳歌していた。

全国制覇のため、着々と補強を重ねてきた織田商事の選手はそうそうたる顔ぶれであった。まず両ロックには同志社セミナリオのOBで日本の暴れん坊大山羊敦、ラガーメンから壊し屋と恐れられる林敏が、ナンバーエイトには南蛮寺からの派遣でラトーが、決め手のウイングにはイエズス会からの助っ人ウイリアムズ、増穂がいた。その他センターバックには、神戸ボランティアから平尾政治、彼の従兄弟である細川たかしが屹立とし、リザーブには馬越、田吉、桜場とずらりと全日本級のメンバーが並んだ。

現役を引退した柴田勝家は監督に昇進、羽柴秀吉もコーチとなっていた。

「ゴール前でのペナルテイであってもゴールを狙わずにまわせ。あくまでも繋いでトライをねらえ。徹底的にトライにこだわれ!」

柴田は檄を飛ばした。質実剛健を地でいく監督の激しい言葉に選手たちの血は逆流、緊張感はさらに高まった。

正面から正々堂々と勝負を挑むのが柴田勝家の目指すラグビーであり、それが柴田勝家の人生そのものなのだ。柴田は握り拳を作り、選手たちを睨みつけた。

観客席からは、そんな柴田を頼もしげにじっと見つめるお市の姿があった。ようやく円陣から離れた柴田の視線は無意識のうちに観客席を見上げ、お市の姿を探していた。やがて柴田はお市を見つけだしたが、お市に瞼に涙が浮かんでいるのを発見、あらためてお市に惚れなおした。

試合は時間通りにはじまった。

織田商事は得意のモールプレーで前進をはかろうとするが、毛利の押しが強く、なかなか前進させてはもらえない。明智の出すサインプレーはことごとく読まれ、ボールを持った味方選手は相手タックルの好餌となった。ラックになると集散の早い毛利フォワードがボールをことごとく奪還、再三再四、織田軍は自軍深くまで攻められることになった。

前半三十分、織田軍ゴール前のスクラムから出たボールは毛利三ツ矢のサインプレーがぴたりと決まって、毛利のセンターがゲインラインを突破した。サポートしていたフォワードが縦を鋭く突き、モールから数度にわたって横に揺さぶりをかけられると、織田軍のディフェンス網はずたずたになってしまった。最後はウイング輝元の快速に遅れまいとついていくのが精一杯で、左中間に初トライを許した。ゴールも決まって毛利軍は七点を先取した。

ゴールを奪って波に乗ったのかその後、勢いが出てきた毛利軍はモールサイドからの豪快なフォワードの突進が相次いだ。織田軍は止めるのが精一杯で、オフサイドの反則を重ねることとなった。

その頃、競技場内ではユニホーム姿の石田三成や真田幸村、長曽我部盛親などを中心とする西軍の選手が協会関係者を取り囲んでいた。

「本来ならば我々が出るはずの試合やのに、これはどういうわけやねん!」

大阪弁の石田三成が協会関係者に詰め寄った。織田商事は信長社長が殺されてからすぐに倒産したはずではないか、と石田たちは不渡りとなった織田商事名義の手形をかざして口々に抗議した。

「このままでは我々の活躍が歴史から消えることになる」

と黒装束姿の猿飛佐助が涙ながらに訴える姿が印象的だ。

やがて騒ぎを聞きつけた東軍の大将徳川家康をはじめ、藤堂高虎や伊達政宗も駆けつけ、あたりは騒然となった。

「試合は即刻、中止にしろ。さもないと」

「さもないと、どうなさるおつもりじゃ?」

「さもないと、徳川幕府が存在しなくなるではないか。そうなればじゃ、・・・」

徳川幕府という言葉が出てきたのを皮切りに、まず綱吉が「百一匹のワンちゃん」を引き連れて現れ、そのあとには吉宗がアラビア馬に乗って出てきた。

「信長さまが天下人になれば、私たちへの迫害はなくなります。踏絵もない。殉教者の悲劇もなくなる。天草四郎も無事だ。高山右近も・・とにかく良いことだ。試合続けて下さい、お願いします」

遠藤周作の後ろで「沈黙」のキチジローを従えたパードレが指で十字を切った。

家継や家斉なども抗議に押し寄せ、淀君、渡辺華山、高野長英、大塩平八郎、桂小五郎、木戸孝允、西郷隆盛に新撰組と、あとはもう次から次へと歴史上の人物が総登場、賛否を唱える人の群れが罵倒と歓声と共に観客席へとなだれ込んできたから、ラグビーの試合どころではなくなってしまった。

「もし日本に鎖国がなかったら、日本は欧米語を話す国民になっていただろう」

と森有礼が言えば、

「米英鬼畜。敵国の言葉などこの日本には必要ないわ!」

と東条英機は森の耳に咬みつき、顔を真っ赤にして怒鳴りかえした。

「ズドーン! ズドーン!」

ペリー提督の黒船からは艦砲射撃が花火のように打ち上げられ、「ええじゃないか」と叫びながら乱舞する町衆が競技場を取り囲み、壇上では板垣退助が自由を標榜し、青年将校たちは皇道を叫んで機関銃を乱射した。

事態を重くみた警察は騒乱罪の適用をめぐって紛糾、ようやく「戦国自衛隊」に援助を要請、輸送機からは千葉真一率いる空挺部隊がグラウンドに降下し、陸路からは中学生の宮沢りえちゃんが指揮する戦車が疾走してきた。赤穂浪士の陣太鼓が鳴り響き、空襲警報のサイレンが耳を突く。B29の編隊が悠然と空を飛び、急降下してきたグラマンが機銃掃射を繰り返す。ダッダッダッタッ・・・。

事態がどう展開するのか、全く予断を許さない、思わず緊張感で押しつぶされそうになった、まさにその時であった。大きな妻の罵声が私の耳元で炸裂した。

「あんた、火事や! 火事や!」

「うん???」

「あんた! あんた! 無人君! あんたはいつから無人君になったんや、このアホ!」

妻に足蹴にされ、頭を何度も叩かれた。

「そんなに怒らんでもええやないか」

「何をのんきなこと言うてるねや。火事やがな、火事。壁さわってみい。放熱で熱いやろ。もうすぐこの家に移ってくるかもしれん。隣が燃えてるのに、のんきに寝てるやなんて。あんたアホと違うか」

と妻の市子に言われて私は飛び起き、どうにか難を逃れることができた。

平成七年八月、岐阜城に程近い、由緒ある寺院の屋根裏から桐の箱に収められた古文書が見つかった。

肝心の古文書だが、虫食いなどで傷みが激しく、専門家でもほとんどの文字が解読不能であったが、読者のためにと、わずかに判る文字だけを拾い出してみることにした。

「関ヶ原の・・場に於いて、・の刻、晴・・・始め・・、(判読不能の文字が数行続く)・・平尾を越え、・・林が・をし、・・大山羊が・て、・・・細川が堀越し、□□社セ・ナ□□、壮絶・・戦・致し候の故は、・・」{四大新聞より}以下は判読不能である。

それから数日して今度は岐阜県で、関ヶ原の河川敷きを散歩中のHさんご夫婦の飼い犬ポチがあまり鳴くので、不審に思ったHさんが地面を掘り起こしたところ、土中から、戦国時代のものと思われる衣服の一部が発見されたとのニュースが地方版の片隅に写真入りで載った。

「・・・土中から衣服のようなものが出てきて大騒ぎとなった。丈夫な分厚い綿のような生地で、わずかだが紺とグレーの縞模様があった。分析調査に当たった著名な考古学者M氏の話では、戦国時代のものであることには間違いないが、当時この地方で流行っていた民間信仰が祭礼の際に使っていた冠頭衣にそっくりだという。いずれにしろ考古学的にはほとんど価値のないものであることがわかって発見者はがっくり、とんだ空騒ぎに終わった」{日中新聞より}       了

参考文献

「日本史資料集」 山川出版社刊

「新詳説日本史」 山川出版社刊

「日本を作った戦略集団第一巻」

堺屋太一責任編集 集英社刊

「八尾柏原の歴史」 棚橋利光著


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